これはただの「婚活小説」ではない
自分は特に悪い人間ではない、と思っていました。
人には優しくあろうと心掛けていて、悪口もあまり言わない。家族とも普通に仲がいい。浮気はしないし、大きな嘘も吐かない——少なくとも、そのつもりでした。
でも「つもり」と「実際」の間には、思っているよりずっと大きな隔たりがあるのかもしれません。
辻村深月さんの『傲慢と善良』は、婚活を舞台にしたミステリ仕立ての恋愛小説です。でも読み進めるうちに、婚活やミステリ要素がどうでもよくなるくらい、自分自身について考えさせられる作品でした。
2024年に藤ヶ谷太輔さん・奈緒さん主演で映画化もされています。
この物語が本当に描いているのは、「自分で選ぶ」ことの難しさ、「いい人間でいよう」とすることの危うさ、そして誰もが心の奥にひっそり持っている、少しだけ後ろめたい感情——そういった、とても身近なものです。恋愛中の方にも、結婚して何年も経つ方にも、「これ、自分のことだ」と感じる場面があると思います。
読んでいる最中は、自分自身のことをよく考えました。過去の自分がどれだけ傲慢で、どれだけ臆病だったか。思い出したくない場面がいくつも浮かんできました。布団の中で考え込んだりして、寝つきが悪くなったりもしました。でも不思議と、読後感は爽やかで、前向き気持ちになれました。
一気読みした方が楽ですが、時間をかけて自分を見つめなおしながら読むことをお勧めします。
あらすじ——婚約者の失踪から始まる、長い旅
主人公は30代の西澤架(にしざわ かける)。順風満帆な人生を送ってきたものの、長年交際した恋人にフラれたことをきっかけにマッチングアプリで婚活を始める。そこで出会った坂庭真実(さかにわ まみ)と交際を始めるが、なかなか結婚には踏み切れない。ある日、真実がストーカーに狙われていることを知った架は、彼女を守るためにようやく婚約を決意する。しかしその直後、真実は突然姿を消してしまう。
架は真実を探すため、彼女の故郷・群馬の実家を訪ね、かつての友人たちに話を聞いてまわる。そこで少しずつ明らかになるのは、架の知っていた「おっとりした善良な婚約者」とは違った彼女の姿だった。地元では「変わった子」と言われていたこと、母親の言動に長年縛られていたこと、そして過去にも「消えること」を選んだ経験があること——。
構成について——前半と後半で何が変わるか
この小説は前半と後半で語り手が変わります。
前半は架の視点で語られるが、後半は真実本人の視点に切り替わります。前半で「なぜそんな行動を?」と不思議に思っていた場面が、真実の視点から読むとまったく別の意味を持ってくる——そういう構成の小説です。
前半では架の視点だけで物語が進むため、真実の沈黙や曖昧な返答は「掴みどころのない性格」として映ります。正直言って、浅い。初めて辻村さんの作品を読む人なら、人物描写が下手な作者だ、と思ってしまうかもしれない。
しかし後半で彼女の内側に入ると、それらの沈黙がいかに多くのものを抱えた結果であったかがわかります。作者はこの構造によって、「主観は偏見まみれである」というテーマを表現したかったのかもしれません。そのままを受け取っていた読者は、架と同じ過ちを犯していることになります。
わたしは、前半部分を読みながら、「真実ってちょっと面倒な人だな」と思っていました。言いたいことをはっきり言わない、どこか掴みどころがない。でも後半で彼女の内側に入り込んだとき、その「面倒さ」がどこから来たのかが見えてきて、自分の感想が少し恥ずかしくなりました。
なぜ、「傲慢と善良」というタイトルなのか
このタイトルを最初に見たとき、あなたはどんな印象を持ちましたか?
わたしは最初、「天国と地獄」のような対比を想像していました。傲慢な人と、善良な人。悪人と善人。人間の持つ二面性——そういった、対になった何かを描く物語なのだろうと。
しかし、辻村深月が描いたのは、傲慢な人と善良な人の対立ではありませんでした。同じひとりの人間の中に、傲慢さと善良さが同時に存在しているという話です。そしてこの絡み合いが、物語の随所に具体的に描かれています。
たとえば架は、真実が婚活で受けた「お断り」の理由を聞かされる場面で、内心それを「選ぶ側の正当な判断」として受け入れています。しかし物語を通じて、まったく同じ論理で自分自身も彼女を「品定め」していたことを思い知る。架は悪人ではなく、誠実であろうとしている。それゆえに自分の傲慢さに気づいていない。
一方の真実をめぐって、結婚相談所の所長・志村がこう言います。
「皆さん、謙虚に見えて、その実、自己愛が強くて傲慢なんです。現代の日本は、傲慢と善良が入り混じっているんです」
この台詞は真実に向けられていますが、単なる批判ではありません。志村が指摘する「傲慢さ」とは、真実が婚活で示し続けた態度——「この人はわたしにふさわしくない」という無意識の選別——のことです。自分では何も決めていないつもりでいながら、実はひそかに相手を採点し続けている。その自覚のない傲慢さが、「善良なわたし」という自己像の陰に隠れている。
真実の場合、「母親の意向に従ういい子」でいることが目的化しており、「自分はどうしたいか」を考える習慣を持たないまま大人になっています。自分で考えなければ深く傷つかずに済む——そういう生き方が長く続くことで、他者との関係も表面的なものにとどまってしまう。善良であることが必ずしも他者への誠実さを意味しない。傲慢であることが、悪人であるとも限らない。
傲慢と善良は対となるような要素ではなく、混じり合って存在しているのです。
登場人物が映し出す、わたしたちの姿
西澤 架——「選べない」ことへの自覚がない人
架は決して悪い人ではありません。むしろ誠実で、気遣いのできる男性として描かれています。ただ彼には、「本当の意味で人と向き合う覚悟」が欠けていました。
その欠如は、彼の語り口にも表れています。前半で架が真実を描写するとき、その言葉は常に「外見がいい」「物腰が柔らかい」「一緒にいて安心する」といった、自分がどう感じるかを中心にした評価で構成されています。真実が何を考え、何を望み、何に傷ついているか——そこへの関心が、ほぼ現れない。
これは、習慣として他者の内面を想像することをしてこなかった架の傲慢さの表れでしょう。
選ぶことをどこかで避けてきた方や、「なんとなく流れで」人と付き合ってきた方には、ちょっと居心地の悪い読書になるかもしれません。でもその居心地の悪さこそが、この本を読んでよかったと思える理由になります。
坂庭 真実——「いい子」でいることの代償
真実は、閉塞感のある地方都市で、支配的な母親のもとで育ちました。自分の意見を持つこと、自分で選ぶことを、うまく身につけないまま大人になった女性です。
真実というキャラクターの難しさは、前半ではどうしても「受け身すぎる人」に映ってしまうことです。でも後半で彼女の内側に入ったとき、受け身さの裏側にあった積み重ねに気付きます。架と出会い、東京での新しい生活を夢見るようになった彼女が、なぜ姿を消さなければならなかったのか。その理由を知ったとき、「かわいそう」ではなく「わかる」と感じた方も多いのではないでしょうか。
真実の母親は、基本的には娘思いです。ただ、娘の進路や、付き合う友人、着る服にまで、自分の意思を差し込んでしまう。辻村さんは、この母親を「悪人」として描いていません。もし母親が明確な悪意を持つ人物であれば、真実を「可哀そうな他人」に感じたことでしょう。しかし、少しだけいびつな形の善意は、読者は自分や自分の親を重ねられます。真実の育った環境が他人事に見えない理由は、ここにあります。
この物語が問いかけること
マッチングアプリが普及し、出会いの選択肢が増えた現代には、皮肉な面があります。出会いの数が増えるほど、「もっといい人がいるかもしれない」という感覚も育ってしまう。それ自体は自然な心理ですが、気づかないうちに「品定めする自分」になっていることがあります。
選択肢が多いほど人は選べなくなるというのは心理学でも知られた現象ですが、本書がそこに付け加えるのは、「選べないこと」が相手を傷つけることにもなりうるという視点です。架が真実への返答を保留し続けた時間は、彼女にとって「選ばれない時間」でした。決断を先送りすることが、じわじわと相手を傷つけていく——架の話はそういう話でもあります。
親との関係について言えば、本書が描く真実と母親の関係は、虐待といった極端なものではありません。だからこそ余計に、読んでいて複雑な気持ちになります。自分の力で生きているつもりでも、大事な場面では「お母さんならどう思うか」「親に反対されないか」という声が頭をよぎる。愛情と支配は、ときに見分けがつかない。「あなたのために」と言いながら、少しずつ相手が自分で考える余地を狭めてしまうことがある。
それでも本書は、告発や批判で終わりません。物語の後半、架と真実がそれぞれに辿り着く場所は、「完璧な相手を見つけること」でも「完璧な自分になること」でもありません。傷ついて、恥ずかしくて、情けなくて、それでも前に進もうとする——そういう変化が、この物語の最後には描かれています。
読み終えた後に爽やかな気分になり、どこか安堵する感覚が残るのは、「断罪」の物語ではなく「理解」を求め続けた物語だからではないでしょうか。架も真実も、物語の中で罰せられません。ただ、気づく。そしてその気づきが、次の一歩につながっていく。その描き方に、「読んでよかった」と思わせられます。

読み終えた時、あなたは自分のことが少し嫌いになり、少し愛おしくなるはずです。
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