いつから自己責任という言葉が、こんなにも強く、容赦なく主張されるようになったのだろうか。
「自分の行動に責任を持て」「他人に迷惑をかけるな」
失敗した人、つまずいた人に対して、「自己責任」という四文字が容赦なく投げつけられる。社会からはみ出した人を吊るし上げ、突き刺すための槍と化しているように思える。
確かに、自分の行動に責任を持つことは大切だ。責任感を持って行動している人からすれば、責任を逃れた誰かには腹が立つだろう。本人が取れなかった責任は社会が負うことになるのだから、攻撃的な言葉を投げつけたくなるのもわからなくはない。
しかし同時に、漠然とした恐怖もあった。
わたしは失敗せずに生きていけるだろうか。みんなそんなに上手に生きられているのだろうか。
宮部みゆきさんの小説『火車』を読みながら、この疑問に真剣に向き合ってみた。
『火車』は1992年に出版されたミステリー小説である。失踪人を捜索する中で、二人の女性の過酷な人生に触れる物語である。バブル崩壊前後の日本を舞台にした、「多重債務」の背景にある社会の構造と個人の事情が丁寧に描かれている。
作中で、ある女性が語る印象的なセリフがある。
「あたし、ただ幸せになりたかっただけなのに」
幸せを求めるのは、人として当然の権利だ。その、ささやかな願いの結果として「自己責任」という沼へ落ちた場合、その願いは「我が儘」や「欲張り」になるのだろうか。私たちはどう受け止めればいいのだろうか。
破産の現実——「真面目な人」ほど、追い込まれる
『火車』の中で、ギャンブルや浪費に溺れたわけでもなく、まじめに生きていた人たちが、なぜ多重債務者になっていったのか。その背景には、個人の責任だけでは説明できない複雑な事情があった。
作中で、弁護士が語る。
「実際には、傍目からは『ちゃんと計算できる』と思われていた人間たちが、多重債務者になってゆくのだ。真面目で気の小さい、几帳面な人たちが」
この言葉は、自己破産や多重債務についての私たちの思い込みを否定する。破産するのは、責任を放棄して欲に狂った人間ではない。むしろ、ルールを忠実に守り、誰にも迷惑をかけまいと歯を食いしばり、周囲の期待に応えようとする「普通の人々」なのだと。
より巧妙に消費を促してくる社会——「情報破産」という言葉の意味
消費を促すメッセージ
小説の中で、法律事務所の事務員が、「情報破産」という言葉を使う。
「五十年代後半のころのパニックの裏には『いい家に住みたい、人よりもっと贅沢したい、いい暮らしがしたい』っていう欲求があった。見栄もあった。そこに消費者信用が足場を提供した。今の状況は、完全に『情報破産』だと思いますよ」
「これこれの方法ならうんと金がもうかる。やれ株だ、いやマンションだ、いやゴルフ会員権だ、とね。で、遊びたい盛りの若い人たちには、どこどこの国が今面白いとか、どこどこへ旅行するのが現代的だ、とか。住むところだって、この町がカッコいい、マンションはこういのでないとお洒落でない、着るものはああだ、こうだ、車はこうだ……これ、みんな情報でしょう? 情報を追っかけて、みんな浮かれてる」
社会は、商業主義と利便性を追求する。企業は利益のために、「これが普通」「これがないと幸せになれない」というイメージを絶え間なく発信し続ける。
この感覚は、作品が発表された平成初期より、令和の現代の方がより実感をもって響く。
インターネットはわたしたちの趣味趣向を把握し、パーソナイズされた広告で強く訴えかけてくる。SNSでは自分と属性の近いインフルエンサーが、「こうあるべき」とメッセージを浴びせてくる。
興味があるもの、手が届きそうなものほど誘因性が強い。わたしたちは欠乏感が刺激され、「普通ではないこと」への不安が高まる。自分の願望が「本当に自分の中にあったものなのか」、それとも「植え付けられたものなのか」の区別すらつかなくなっているかもしれない。
便利さ、簡単さを追求する
そして、消費行動のハードルを下げるための仕組みは進化し続けている。
「見れば欲しくなるだろう。レジではカード一枚出してサインすれば買える。浮ついた気分になる」
「問題は、そこで歯止めをかけるものがいない、ということ。これでいいでしょう、素敵でしょう、ほしいでしょう、さあどうぞ――と煽ることはしても、金利や毎月の支払額の累積のことを考えると今日はこの程度にしておいた方がいいですよ、と忠告してくれる店員はいない」
作中ではクレジットカードが問題視されているが、今やスマホをかざすだけで決済が完了する。現金を使う機会は激減し、支出の実感が薄れていく。さらにネット通販では、店員や他の客の目もない。クリックするだけで自宅に届く。社会は、より早く、より多くのものが買える仕組みを作り続けている。
きっと多くの人が後悔を経験しているはずだ。
「必要じゃないのに買ってしまった」
「買いすぎた」
「思っていたのと違った」
「焦って投資して損をした」
小さな失敗は誰にでもある。社会が必死になって、失敗を誘発し、浪費させる仕組みを構築しているのだから、これは個人的なミスとすら言えないかもしれない。
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植え付けられた「普通の幸せ」の切実さ
収入と出費を計算すれば、使える金額はわかる。いかに社会が消費を煽っていたとしても、ふつうは分相応というものがわかるはずだ。
自分の収入を超えて使いすぎてしまうのは本人が悪い。
確かに、そうだろう。キャッシュレスや分割払い、サブスクで消費に対する感覚を鈍らされているとはいえ、少し計算すれば出費額は算出できる。それと収入を照らし合わせれば、生活が立ち行かなくなるラインはわかる。それ以上に使いすぎてしまうから足りなくなるのだ。
なぜ、そうまで使ってしまうのだろう。
計算をしていないかもしれない。何とかなると楽観視しているのかもしれない。いろんなケースがあるだろうが、ここでは「幸せになりたかっただけ」という言葉に向き合って考えてみる。
「普通」を手に入れたいという願い
『火車』に登場する多重債務者たちは、決して贅沢をしたいわけではなかった。彼らが求めていたのは、ただ「普通の幸せ」だった。
結婚式を挙げたい。新婚旅行に行きたい。家族で温泉旅行に行きたい。子どもに習い事をさせてあげたい。みんなが持っているものを、自分も持ちたい。
これらは決して過分な欲求ではない。むしろ、社会が「これくらいは普通」と示してきた、ささやかな幸せの形だ。
「普通」に手が届かない人に、「無理するな」「諦めろ」と言うのは簡単だ。
しかし当事者からすれば、「普通」を諦めることは、自分や家族の幸せを諦めることのように感じられる。
けして簡単なことではないだろう。
作中では、弟の結婚式のために借金をした女性が描かれる。彼女は弟に惨めな思いをさせたくなかった。ただそれだけだった。親としての、姉としての、当然の感情から出た行動が、破産への入り口になる。
それぞれが抱える「幸せの条件」
さらに『火車』は、人によって「幸せの条件」が異なることを描き出す。
その人が求める幸せの形が、ほかの人の共感を呼ぶものであれば、「普通」を求めた結果破産したというストーリーに同情が集まるかもしれない。
しかし「幸せの条件」は人それぞれだ。共感を呼ばないものもある。
作中には、整形手術に執着する女性についての会話がある。
「整形狂いの女がいるわ。完璧な美女になりさえすれば、一〇〇パーセント人生バラ色、幸せになれると思い込んでるの。だけど、それだけで思ってるような『幸せ』なんか訪れない。」
「男にだっていますよ。そういう人。必死で勉強していい大学に入って、いい会社に入ろうとするのだって、そうでしょ? 勘違いなのよ。ダイエット狂いの女を笑えませんよ。みんな錯覚を起こしてるのね」
「なにをどうすれば幸せになれる」なんていう公式はない。ひとりひとりの「思い込み」があるだけだ。その思い込みは、社会が作り上げてきた幻想だろう。しかし、本人にとっては切実な願いなのだ。
「だけど今はなんでもある。夢を見ようと思ったら簡単なの。だけど軍資金がいるでしょう」
結婚しなければ。子どもを産まなければ。マイホームを持たなければ。いい大学に入らなければ。美しくならなければ。承認されなければ。社会は無数の「思い込み」を植え付け、それを手に入れるために、「金を使え」と囁き続ける。
自分が信じる「幸せ」に到達しようとする、その必死の努力が、破産へと繋がってしまう。
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誰にでも起こりうる「転轍機」
計画が破綻するとき
いくら「普通の幸せ」を追い求めるためとはいえ、破産しては元も子もない。そんなことはみんな分かっている。それでも、破産への道を進んでしまう人が後を絶たないのはなぜだろうか。
それは、人生とは計画通りに進むものではないからだろう。
子どもの養育費を例として考えてみる。
子どもが生まれたときには、計画を立てるだろう。
しかし、すべてが計画通りにいくことはない。
物価の上昇。給与の伸び悩み。病気。親の介護。小さな出費の積み重ね。ひとつだけなら大きな問題ではない。しかし、想定外が重なっていけば、いずれ計画は破綻してしまう。
作中に印象的な比喩がある。
「ノーマルに穏やかに走っていた機関車を、徐々に、徐々に、危険な坂道へ、その先には朽ちかかった橋が伸びているだけの崖っぷちへと誘導していく、小さな転轍機。ひとつ、またひとつ、音もたてずに切り替わり、進路を変えてゆく」
転轍機とは、線路を切り替える装置だ。小さな転轍機が切り替わることで、予定のルートから少しずつ外れていく。気づいたときには、機関車は危険な坂道を走っている。
「債務を抱えてゆく本人も、自分を動かした転轍機がなんであったか、それがどこにあったかを意識していないのではないか?」
誰の前にも転轍機は存在する。転げ落ちるリスクは誰にでもある。
「普通の幸せ」を変えることの困難さ
では、計画を変えればいいではないか。
ルートがずれたのなら目的地を変えればいい。望んだゴールにはたどり着けないかもしれないが、破滅への道をそのまま突き進むよりは、まだマシな未来に辿り着けるだろう。
食費を切り詰めればいい。安いところに引っ越せばいい。旅行に行かなければいい。習い事を減らせばいい。私立をあきらめて公立にすればいい。
しかし、それは言うほど簡単なことではない。引っ越しで友達と引き離したくない。周りが進学するなら同じように進学させたい。すでにその道を進んでいるなら、なおのこと難しい。
一度思い込んだ「普通の幸せ」の価値観は、簡単には変えられない。価値観を変えるには、一度「普通」を諦める必要があるからだ。
必然的に決断は先延ばしになる。
まだなんとかなる、もう少し耐えられる。しかし限界を超え、崖から転げ落ちてしまう。
『火車』が描いたのは、バブル期の多重債務だった。しかしこの構造は、現代にも形を変えて存在している。
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『火車』と同じ構造——現代の奨学金返済問題
ここまで『火車』を通じて、多重債務における「自己責任論」の問題を考えてきた。
消費を煽る社会の仕組み、植え付けられた「普通の幸せ」への願い、予期せぬ不運の連鎖。これらが絡み合って、個人の判断だけでは説明できない破産への道が形作られていた。
破産した人に対して「自己責任だ」と言うのは簡単だ。
しかし『火車』を読んだ後では、あまりにも短絡的な結論に感じられる。
これと同じ構造が当てはまるのが、現代の奨学金返済問題だ。
大学生の約半数が奨学金を利用しており、卒業後の返済に窮する若者が急増している。この実態が報じられるたびに、「借りたものは返すのが当然だ」「返せないなら進学すべきではなかった」「見通しが甘い」といった批判があがる。
「借りたものは返す」という原則は正しい。しかし返済できない状況に追い込まれた背景には、個人の甘さだけでは説明できない社会構造の問題がある。
「普通の幸せ」への切実な願いがここにもある。「いい大学に入って、いい会社に入ることが幸せにつながる」という——この価値観は深く根付いていて、「普通の幸せ」を手に入れるための必要条件として刷り込まれてしまっている。
高校生にとって、将来の経済状況を見通すことは不可能だろう。なにせ就職という大きな「転轍機」があるのだから。
返済に苦しむ可能性があるからと言って、「普通の幸せを諦める」という決断は難しい。「何とかなる。みんなそうしてるんだから」と考えてしまうのも無理はない。
「あたし、ただ幸せになりたかっただけなのに」
この切実な声は、『火車』の登場人物だけでなく、「自己責任」の言葉で封じ込められた多くの人に共通しているのではないか。彼らの事情を考慮せず批判するのは、あまりにも冷酷ではないだろうか。
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自己責任が問われる社会とどう向き合えばいいか
「自己責任」という言葉を使う前に、立ち止まって考えてほしい。
ニュースで伝えられるのは、結果だけだ。
しかし、その人にはその人の事情がある。
簡単に判断する前に、想像してみてほしい。
【問い1】その人は何を求めていたのか?
報道では結果とその理由が端的に伝えられる。
しかし、それがその人にとって、どんな意味があったのかは伝えられない。
その人の望みや切実さはわからない。
家族の幸せのためだったかもしれない。
「普通」になりたいという切実な願いだったかもしれない。
「幸せになるためには美しくならなければならない」
そう感じるほど、追い詰められていたかもしれない。
「子どもの将来のために大学に行かせなければならない」
そんな「普通」がその人の中にあったのかもしれない。
あなたの基準とは違っていても、その人にとっては、幸せになるために必要で、そして切実なことだったかもしれない。
もちろん、限界はある。誰かを犠牲にする、法を犯す。悪意や不誠実さがある場合は、話が違う。しかし、悪意なく判断した結果なら、その願いを簡単には否定できない。
「あたし、ただ幸せになりたかっただけなのに」
この言葉の重みを、想像してみて欲しい。
【問い2】その決断は、その時点で妥当だったか?
「無謀だった」「予測できたはず」
結果を見てからなら、そう思うだろう。
しかし、決断した当時はどう見えていただろうか。
そのときの時代性と、その人の状況について考える必要がある。
景気がよく、銀行がどんどん借りてくれと言ってくる時代だったかもしれない。
奨学金を借りて大学に行くのが「普通」になっている時代かもしれない。
バブル崩壊、リーマンショック、パンデミック。
起きた前と後では社会の価値観が変わってしまった。今現在の価値観でそれ以前の決断を批判することはフェアではない。
今の学生を取り巻く状況は、親世代が学生だった時とは異なっている。
失敗という結果から遡って考えれば、間違った決断だったという結論にしかならない。重要なのは、決断の瞬間の事情を、想像してみることだ。
その時点では、批判されるような決断ではなかったのではないか?
自分の感覚や経験だけでは、誰かの決断の是非を判断することはできない。
「決断した理由があったのかもしれない」
そう考えることで、見えてくるものがあるだろう。
【問い3】その人は何をしてきたのか?
決断の後、状況は刻々と変わっていく。
物価が上がる。給与が伸びない。病気になる。親の介護が必要になる。
小さな「転轍機」が音もたてずに切り替わっていく。
「もっと節約できただろう」
「最初の段階で相談していればなんとかなっただろう」
「無理だったんだからさっさと諦めれば良かったのに」
そんなのは結果が出たあとだから、わかることだ。
その人は何をしてきたのか?
返済のために仕事を増やしたかもしれない。
節約していたかもしれない。
誰かに相談していたかもしれない。
こうすれば何とかなるだろうと考えて行動したのに、さらに想定外の事態が起きたのかもしれない。
どこで限界を超えるかを見極めるのは容易ではない。
まだ何とかなるかもしれないという希望がある中で、子どもの進学を諦められるだろうか。親や親せきに頭を下げて回れるだろうか。空腹に苦しむほどの節約ができるだろうか。
自分が同じ状況に置かれたら、本当にそれができただろうか?
できなかったことを責めるのではなく、やったこと、やろうとしたことを想像してみる。
そして、自分なら回避できたかを、考えてみる。
これら3つを考えても、なお「自己責任」と言えるだろうか?
重要なのは、「自己責任かどうか」を判断することではない。
重要なのは、その人の事情を想像しようとすることだ。
あなたや、あなたの身近な人にも、起こりうることかもしれない。
完全に理解することはできない。
しかし、想像しようとする姿勢を持つこと。
「その人の気持ちになって考えなさい」
子どものころに言われたこの教えを、大人になった今こそ実践する必要がある。
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セーフティネットは、使われてこそ意味がある
そして重要なのは、たとえ3つの問いで「個人にも責任がある」と感じる場合でも、セーフティネットは必要だということだ。
なぜなら、人は失敗から学び、再起できるからだ。
一度の失敗で人生が詰む社会は、誰にとっても生きづらい。「失敗しても立ち直れる」という安心感があってこそ、人は前向きな挑戦ができる。
しかし「自己責任論」は、このセーフティネットを脅かしている。「税金で怠け者を助けるのか」——こうした声が、制度を縮小させる圧力になる。
その結果、本当に支援が必要な人が、周囲の目を恐れて助けを求められなくなる。
困窮に陥るリスクは誰にでもある。明日は我が身なのだ。
誰かの困窮を「自己責任」で片付けない
そして何より重要なのは、困窮している人に対して、安易に「自己責任」という言葉を使わないことだ。
奨学金が返せない若者、多重債務に陥った人、生活保護を受けている人——「自業自得」と切り捨てる前に、3つの問いを思い出してほしい。
その人は何を求めていたのか?
その決断は、その時点で妥当だったか?
その人は何をしてきたのか?
完全に理解することはできなくても、想像しようとする姿勢を持つこと。
事情はひとりひとり異なる。しかし「自己責任」という言葉で思考停止せず、ひとりひとりの背景に目を向けること——それが、より良い社会への第一歩になる。
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まとめ
「自己責任」という言葉の前で、立ち止まって考える。
「あたし、ただ幸せになりたかっただけなのに」
この言葉の奥にある切実さ、社会構造、小さな誤算の積み重ね。それらに目を向けることが、より生きやすい社会を作る第一歩になる。
わたしたちに必要なのは、失敗した人を責めることではない。個人が自らの行動に責任を持ちつつ、社会もまた個人を支える責任を果たす。その両輪があってこそ、健全な社会は作られる。
完璧な答えは出せない。しかし、問いを持ち続けることはできる。
「自己責任」という言葉を使うとき、少しだけ立ち止まって考える。それだけで、社会は少しずつ変わっていくはずだ。

最後まで読んでいただきましてありがとうございました。






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